3章 イギリスと英国

  「イギリス」という呼び名は、日本人にとって慣れ親しんだ言い方なので、この講座では、「イギリス人スチュワーデス」という表現を使ってきた。しかし、クラスにはアイルランド人やドイツ人やオーストラリア人もいたし、イギリス人のなかにも、スコットランドやウェールズ出身者もいた。したがって、彼女たちをイギリス人スチュワーデスと呼ぶのは正確ではない。そのため、彼女たちのことをLON基地Crewと呼ぶことにした。スコットランドやウェールズを含む、いわゆるイギリス国籍のスチュワーデス以外に、アイルランド人、、フランス人、イタリア人、デンマーク人、スペイン人、ベルギー人など他のヨーロッパ諸国の人たちもいるからだ。現在のロンドン基地には、15ヶ以上の国のスチュワーデスが在籍している。また、「スチュワーデス」も、現在では、正式名称ではないが、このHPでは、スチュワーデスの名称にこだわりを持っているので、そのまま使うことにした。 

《イギリスは国名か》

 私たち日本人は、イギリス人とアイルランド人の違いをよく知らない。また、イギリスといっても、イングランドとスコットランドとウェールズ、さらに北アイルランドがあり、それぞれ歴史も違うし、民族的にも違う。英国の中でも、「彼女はスコティッシュ(Scottishスコットランド人) だ」とか「彼はウェリッシュ(Walshウェールズ人)なの」と言っているし、イングランド人をイングリッシュ (English)と呼んでいる。

 「英国王室史話」の著者である森護氏も、「日本ではイギリス、イングランド、英国の表現が、極めてあいまいに使用されているので、この国の理解に大きな妨げとなっている」と本の最初で述べている。

  米国はアメリカ、仏国はフランス、独国はドイツ、それでは、英国は?と聞かれて、ほとんどの日本人は、「イギリス」と答える。日本語では正解になる。今度は英語で答えてくださいと質問をする。米国はAmerica 、仏国はFrance、独国はGermany 、それでは英国は? 多くの人は Englandと答えてしまう。間違いではないが正解でもない。「英国」は"England", "Great Britain" "The United Kingdom" と、いろいろな呼び方がある。正式な国名として呼ぶ場合は、"The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland"であり、「連合王国大ブリテンならびに北アイルランド」となる。長い国名なので、新聞などでは "U.K"と省略して書いている。昔は「大英帝国(Great Britain) 」とも呼ばれていた。

 カタカナの「イギリス」は、明治時代に欧州に渡った人達が、イングランド人が自分達のことを「イングリッシュ」と呼んでいるのを聞き、そのままカタカナにしたのではないかと推測できる。「イングリッシュ」が、明治の人には、「インギリッシュ」に聞こえ、それが「イギリス」になったようだ。当時の英国は、1700年代終りから1800年代初頭にかけて起きた産業革命で、繁栄を謳歌していた。その繁栄も工業が盛んになったマンチェスター、バーミンガム、リバプール、シェフィールドなどの都市があるイングランド地方が中心であった。その首都がロンドンである。明治の人達もイングランドに滞在し、いろいろなことを学んできた。当時の日本人にとってイングランド王国が英国であったので、「イギリス、イギリス」と呼んだのではないか。当時はまだ、「ブリティッシュ」という言い方に馴染んでいなかったのかもしれない。1500年代までは、イングランド王国とスコットランド王国はまったく別の国だったのだ。明治の日本には、連合王国(United Kingdom)になった後の「英国」が輸入され、その歴史的、民族的背景はあいまいのままになって今日に至っているようだ。

 "English"は、狭義には、「イングランド地方出身者」となる。広義には、「英国人全体」を指す。クラスには英国人だけなく、アイルランド人やオーストラリア人もいた。ある時、「彼女は確かイギリス人の筈だが」と思い、確認のために、カレン・マッコールに、

  "Are you English?"

と聞いたら、

  "No, I'm Scottish."

と答えが返ってきた。たぶん、

  "Are you British?"

と聞いたならば

  "Yes, I am." 

と答えた筈だ。日本語感覚では、イギリス人=英国人としてもかまわないと思うが、英語で表現するときは、英国人=British とした方が無難だ。英語圏の人々にとって、 "English"はイングランド地方やイングランド出身者のイメ−ジがある。日本では、英国=イギリス=イングランドの関係があいまいに使われているが、それ以上に、英国とアイルランドの関係や、アイルランド人について理解している人は少ない。という私も、長い間、あいまいなままにしてきた1人である。実をいうと、今回の訓練を担当するまで、よく理解できていなかったと言える。書店には、英国関係の本は山ほど置いてあるが、アイルランド関係の本は非常に少ない。これも日本人がアイルランドのことを、よく知らない理由のひとつと言える。 

《金髪のイギリス人と黒髪のイギリス人》

 イギリス人スチュワーデスを見ていると、毛髪の色の違いに気がつく。金髪の人、、栗毛の人、赤毛の人、黒髪の人とさまざまだ。瞳の色も、濃い茶色、ブルー、ブルーグリーンとなる。そして、同じ金髪でも少しずつ色が違う。瞳も違う色をしている。金髪で肌の白い人をブロンドと呼び、髪の黒い(真っ黒ではない)人達はブルーネットと呼ばれる。赤毛をストロベリーブロンドという。金髪で青い目が主流であるゲルマン民族系のアングロサクソンの国なのに、どうして違う髪の色の人がいるのか、という疑問が起きてくる。

  紀元前5000年前のイギリスは、ヨーロッパ大陸とつながっていた。その後、大陸から離れて島になった。その頃に住んでいたのが、土着のブリトン人だった。この土着民族も、元を辿ればアフリカからきたと言われている。英文科の学生が習うイギリス人の先祖はケルト人である。スペインのイベリア半島からアイルランドとフランス(当時のゴール)に渡ったケルト人が、ブリテン島に入ってきたのは、紀元前650年頃と言われている。そして、ケルト人はブリトン人とまざり合いイングランド、ウェールズ、スコットランド地方に住みはじめた。 

 日本は、歴史の中で、韓国人の国になったり、中国人の国になったりすることはなく、日本人の国のままできている。一方、英国は、過去に何度か侵略されている。紀元前55年のローマ軍の侵略が最初だ。ローマ軍の侵入とともに、ローマ人がイングランド地方に入り込んできた。ローマ人はローマ風呂、ガラス窓、寺院、水道、文字、戦車、そしてワインを持ち込んできた。当時のローマ帝国は先進国であったので、ブリトン人やケルト人の中から、黒髪で濃茶の瞳のローマ人と結婚する人々が出始めた。

 ローマ人は、450年ほど、イングランドに住みついていたが、西暦400年頃になると、今度は、今のデンマークやドイツ周辺からゲルマンの一族であるアングル族やサクソン族やジュート族が侵入してきた。ローマ人を追い払い、イングランドに7つのアングロサクソン王国を作ってしまった。金髪で青い目の人達である。イングランドに残ったローマ人もいたので、ケルト系、アングロサクソン系、ローマ系の人達が交じり合った。

 日本が平安時代の頃、アングロサクソン人の国になっていたBritain島に、今度は、バイキングとデーン人が襲ってきた。バイキングはスコットランドに、デーン人はイングランドの東部に上陸してきた。バイキングはノルウェー人、デーン人はデンマーク人の祖先を持つ。アングロサクソン系のアルフレッド大王の激しい抵抗を受けたが、バイキングとデーン人の侵略は続いた。その一部は、スコットランドやイギリスに住みつくことになった

 10世紀頃までに、英国には、ブリトン人から始まり、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、バイキングが入り込んできている。ドイツ人、イタリア人、ノルウェー人、デンマーク人等の子孫にあたる人達である。

 アルフレッド大王が死去したあとも、アングロサクソンの王様は、デーン人(ノルマン人)を打ち負かしてきた。それに怒ったデーン人(ノルマン人)は、何度もイギリスに侵入してきた。そして、1066年に、ついにイギリスを征服してしまった。これが「ノルマンコンケスト(Norman Conquestノルマン人の征服)」である。この時、イングランドに乗り込んできたのが、ノルマンディー公ウィリアム1世である。彼は、イングランドとフランス両国を統治した。ウィリアム1世はノルマン系フランス人だったので、征服後、アングロサクソン系の王家や貴族を追い払ってしまい、それ以降約300年程、イギリスはノルマン系の国になってしまった。

 現在のロンドン郊外には、当時のノルマン貴族たちが所有していたお城やマナーハウス(Manor House荘園領主の館)がまだ残っている。一部のマナーハウスは、土地を維持するためレストランを営んでいる。当時の面影を残しており、メニューもフランス語で書かれている。シェフもウェイターもフランス人のところもある。ロンドンに行く機会があったら、この荘園レストランにぜひ立ち寄ってほしい。夏は館の庭先で、冬は暖炉の部屋で食事ができる。

 Englandに定住するようになったノルマン人も、定住しているうちに、だんだんイングランド人化してきた。領地問題などで、イングランドとフランスの関係がまずくなり、その内、ウィリアム公が所有していたノルマン地方の土地も、フランスの他の王族に奪われはじめた。領土維持のためにフランスと100年戦争(1337)もしたが、結局、ノルマン地方の土地はとられてしまう。ノルマン人がイギリスに入って300年近く経つと、ノルマン人としての意識よりも、イングランド人としての自覚が芽生えてきている。両国の王家同士は親戚関係にあるが、フランスとは一線を画すようになる。1300年代の後半から1400年にかけての話しである。いろいろな人種の交じり合いが終り、イギリス人の髪の色も落ちついてきた。

 その後、赤いバラの紋章を使うランカスター家と、白バラのヨーク家の王位をめぐる「バラ戦争」があり、国内での勢力争いが続いた。そして、1485年に、ウェールズ出身でランカスター家の血を引くヘンリー7世がイングランドを統一した。ヘンリー6世まではノルマン系の王様だった。ヘンリー7世はアングロサクソン系であり、再びアングロサクソン系の王様による支配の時代になった。

  ヘンリー7世の息子が、離婚したり、王妃の首をはねたりで有名になったヘンリー8世であり、王妃を6人もかえた王様である。離婚のために、離婚を禁止していたカソリックのローマ教会から脱退してしまった。最初の奥さんはスペイン王の娘キャサリン(若死にした兄の嫁)だった。この妃との間に生まれたのは女の子ばかりだった。世継ぎが欲しいヘンリー8世は、なんとか離婚したいのだが、ローマ教皇が許可を出さない。キャサリンはスペイン王室から嫁いできた。熱烈なカソリック教国のスペインも離婚には反対だった。そこで、ヘンリー8世は独自の英国国教会を設立した。

 王妃がスペイン人であるということは、宗教関係者を中心に多くのスペイン人がイギリスに入り込んできていると想像できる。スペイン人は黒髪に濃い茶色の目である。金髪に青い目のアングロサクソンやノルマン人が主流のイングランドに、黒い髪のスペイン人が入ってきた。 

《英国の宗教》 

 イングランドに聖アウグスティヌスが入り、キリスト教を布教しはじめたのが597年だと言われている。日本に仏教が入ってきたのが538年なので、イングランドにキリスト教が入ってきたのは、それより少し後になる。それまでのイングランドの宗教は、祖先崇拝の原始宗教だった。当時、戦いに明け暮れたゲルマン系のアングロサクソンたちは、永遠のやすらぎを求めていたところだった。

 キリスト教が入るまでは、王様の宗教的意味は「神の子」あるいは「神の子孫」だった。その後、キリスト教に改宗した王様たちは、「神によって特別祝福された人」という意味合いに変わった。イギリスでは、王位につくとカンタベリー大司教に「戴冠式」をしてもらうが、これはこのようなキリスト教の歴史と関係があるようだ。

 ヘンリー8世と王妃キャサリンとの間にできた娘が、のちの女王メアリー1世である。機内でもサービスしているカクテルの「ブラディー・メアリー」は、この女王に因んで就けられた名前だ。

 ヘンリー8世は、自分の都合で、イングランドをローマ・カソリック教会から脱退させ、独自のプロテスタント教会をつくった。そして、カソリック教徒を迫害し、プロテスタン教徒に改宗しない者を、次から次と火あぶりにした。そして、ローマ教皇の所有物である修道院を片っ端から壊してしまった。この時活躍したのが、トーマス・クロムウェルである。これがイギリスの宗教改革の始まりとなる。1530年頃の話しである。

 3番目のお妃ジェーン・シーモアとの間に、やっと息子が生まれた。ヘンリー8世が死去すると、王位についたのは幼い息子のエドワードだった。ところが、病弱ですぐに死んでしまったので、次に王位継承権があるメアリーが王位についた。メアリーの母親は、男の子を生まなかった。そのため、何かと理由をつけられ離婚されてしまう。キャサリンの娘であるメアリー1世は、母親同様に、熱心なカソリック教徒だった。そして、スペインのフェリペ王を婿に迎えた。又もや、イギリス王家とスペイン王家が結びついた。メアリー1世の時代は、イギリスがスペインの影響を多く受けた時代だった。メアリー女王は、王位につくとスペインの後ろ楯を得て、イングランドを元のカソリック国に戻そうとした。今度は、新教徒(プロテスタント)の司教をはじめ、信者を次々と迫害し火あぶりにしてしまった。イギリス人たちはこのメアリー女王のことを、「残忍なメアリー」つまり「ブラディー・メアリー (Bloody Mary)」と呼び、今では飲物として、人々の心に残っている。 

《エリザベス一世》

  メアリーの後に、王位についたのがエリザベス1世である。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・プーリンの娘である。アン・プーリンが産んだのも、やはり女の子だった。ヘンリー8世は、またがっかりしていたところ、アンが不倫(姦通)していることが判った。ヘンリー8世は、ちょうどよいとばかりに、姦通を理由に王妃と相手の男を処刑してしまう。

  そのため、母親を早く亡くしたエリザベスは、私生児として扱われ、王位継承権をもつことができなかった。ところが、イングランド人たちは、残虐なメアリーにもうんざりしていたのでメアリーを処刑してしまった。ところが次に王位につく者がいない。そこで、王位継承権がなかったエリザベスを後押しした。その中心的役割を果たしたのが、ヘンリー8世の最後の王妃キャサリン・パーである。彼女の努力で、エリザベスは王位につき、エリザベス1世となった。おもしろくないのはスペインである。カソリック教徒であるメアリーを処刑され、スペインは怒り、両国の関係は悪化してしまった。

  この時代のイングランドは、外交問題や宗教問題などでゴタゴタしていた。当時のスコットランドは、フランスの息がかかっておりイングランドを狙っている。スペインもフランスと同じである。同じカソリック教国なのでお互い通じている。国内のカトリックたちも、メアリー1世のあとは、スコットランドのメアリー女王 (イングランドのメアリー女王とは違う人物)がイングランドを治めるべきだと考えていた。

 プロテスタンド化を推進するエリザベス女王は、カソリックはインクランドから出ていくよう通告して追い払った。そして、プロテスタントの英国国教会をさらに強固なものとした。エリザベス1世は、イングランドの王位を狙っているという理由でスコットランドのメアリー女王を危険人物として処刑しまう。このメアリー女王もカソリックだからである。この女王は、愛人と共に爆弾を仕掛けて夫を殺してしまい、スコットランドから追い出され、イギリスに逃げ込んだところを捕まってしまった。スコットランドのメアリー女王は、エリアベス1世にとっては従姉妹にあたるのだが、スペインが後押しをしており、影でコソコソやっていたことと関係があるようだ。おもしろくないスペインは、スペイン無敵艦隊でイングランドを攻め込んだのだが、イングランド艦隊はこの無敵艦隊を打ち破ってしまった。エリザベス1世の時代の話しである。

 この時代は、貿易と工業が発達し、シェイクスピアも活躍し文化も栄えた。エリザベス1世の舵取りのもと、外交的にも国内的にも、イングランドは国としてしっかりした基盤ができ上がった。共通の法律、共通の聖書、国教会祈祷書、共通の文学、そして共通の言葉(英語)を使うようになった。幼いエドワードや残忍なメアリーの時代に、ガタガタになった国内を建て直ししたのもエリザベス1世であり、イングランドの繁栄の基礎をつくった女王として有名である。

 エリザベス1世は、一生独身のままだったので、1603年に亡くなると、王位を継ぐ直系の者がいない。そこで、生前中に、女王は、王位継承権を、処刑したスコットランド女王メアリーの息子ジェームズ6世に託すことにしていた。国が違っても当時の王室は、どこかでつながっている。ジェームズ6世も、血統的にはエリザベス1世の父方の親戚関係にあたるのだ。

《宗教改革》

  王様の不純な動機で、イングランドはカソリックからプロテスタントになった。同じ時期に、ヨーロッパ大陸でも、宗教改革が行われていた。はじめに、マルチン・ルターがドイツで運動を起こした。つづいてスイスに亡命していたフランス人のカルヴァンが、ジュネーブ教会の改革に着手していた。旧教(カトリック教会)がキリストの精神を歪め、教会の財政が破綻すると、免罪符を売出して商売を始めるなど、道徳的にも堕落した状態に「抗議(プロテスト)」し、それに「抵抗(プロテスト)」した。

 当初は、王様の離婚問題という世俗的な事件が発端となり、プロテスタントの国となったが、次第にカルヴァン主義の影響を受けるようになった。そして、宗教改革の徹底を主張するピューリタン(清教徒)が出てきた。

 エリザベス1世の跡を継いだスコットランド王のジェイムス6世は、ロンドンに入り、イングランド王ジェイムス1世になった。この時はじめて、スコットランドもイングランドもウェールズも同じ王様になった。すでにアイルランドも植民地化していたので、アイルランドの王様も兼ねていた。ジェイムス1世が4つの国の王様になったのが1603年だった。日本では、徳川家康が国家を統一し、征夷大将軍となり、幕府を江戸に開いた時期にあたる。ジェイムス1世の時代の英国は、英国国教会(アングリカンチャーチ・聖公会)のプロテスタントと旧来のカソリック、そして、プロテスタンの過激派のピューリタンが勢力争いを行っていた。

  ピューリタン派は、世俗的なことに対して、厳しい態度をとっていた。芝居もダンスも化粧もだめ、キリストの教えを徹底して守ろう、という考えだった。あまりにも厳しいことをいうので、大半の国民にとってはうさん臭い存在になった。そこで、ジェームズ1世はピューリタンたちに対して、英国国教会に宗旨替えをしないと処刑すると脅かした。英国にいると命が危ないので、一部のピューリタン達は「メイフラワー号」に乗り、新天地を求めてアメリカのヴァージニアに向かった。1620年頃の話しである。アメリカが、極端なまでに禁酒の国になったり、最近のように、極端に禁煙運動を行ったりするのは、ピューリタン思想が今も残っているからかもしれない。 

《清教徒革命》

  ジェームズ1世の時代が終り、その次男のチャールズが王位についた。イギリスのプロテスタント化を押し進める議会とカソリック寄りのチャールズはそりが会わなかった。議会がカソリック禁止の法案を可決すると、チャールズは議会を解散してしまい、その後、11年間は王様1人で国を治めた。結婚した相手は、フランス王家アンリ四世の娘アンリエッタ・マリアーだった。王妃がフランス王家出身であることは、プロテスタントにとっては脅威に映った。さらに、王チャールズが好き勝手なことをやるので、議会は反対し、ついに王と議会は衝突してしまった。内乱の結果、清教徒をバックにした議会派が勝利し、王チャールズを処刑してしまった。これが清教徒革命である。この時、活躍したのがオリバー・クロムウェルである。さらに過激的プロテスタントの勢力が強くなり、カソリックがいじめられる時代が続いた。王様が処刑(16488)されてしまったので、しばらく王政がなくなり無政府状態となってしまった。代わりに、クロムウェルの軍事政権が続いた。オリバー・クロムウエルは、余勢を駆って、カソリック教国アイルランドをプロテスタント化するため東奔西走していた。 

《プロテスタンとカソリックの共存》

  清教徒革命が起きたが、しばらくすると、息苦しくなった国民は、清教徒とは反対の暮らしを求めはじめた。そこで、処刑されたチャールズ1世の息子で、清教徒革命の間、フランスに亡命していたチャールズ2世を迎えることにした(1660)。フランスに亡命していたということは、父親と同様に、カソリックの影響を受けていた。イングランドに戻り王位につくと、いままでいじめられ続けてきたカソリック教徒に対して、きびしくすることはなかったので、カソリックとプロテスタントが共存するようになった。

 この後、1660年代には、ペストが流行し、ロンドンだけでも70万人が死亡した。ペストが終息すると、今度はロンドンの大火(Great Fire of London 1666)が起こり、一万戸が焼けてしまった。

 チャールズ2世は、議会を招集した。最初の議会では、ピューリタンを高い地位から締め出すことが決められた。そして、宗教的な目的での集会などを禁止してしまった。違反した者は牢屋に入れられたり、植民地に送られたりした。ところが、チャールズ2世は、フランスとオランダの戦争に力を貸す。フランスとの間で、イングランドをカソリックにするという取引をしてしまった。議会はそれに怒り、カソリック教徒が政府の高い地位につけないというカソリックの締め出しをした。この頃のフランスはルイ十四世の時代で、イギリスとは反対に、プロテスタントが迫害されていた。フランスにいたプロテスタンはイギリスに逃げ込んできた。フランスが何かにつけて、イギリスを狙っていた時代である。

 そして、1600年代の後半になると、対外的問題もあり、国家の統一が叫ばれるようになり、名誉革命(1689)が起きる。憲法にあたる「権利章典」が定められ、国民の生命や財産の保護、言論の自由など基本的人権が保証されるようになった。ホーリー党とウィッグ党による政党政治が行われるようになった。王位継承権も議会が決めるようになった。誰がどの宗教を信仰しても構わないということになった。宗教が違うからと言って、やたらと首を切られることがなくなったのだ。 

《大英帝国》

 いままで見てきたように、イングランドは、ノルマンコンクェスト以来、フランスや他の大陸諸国とは兄弟のような関係できた。戦いもたびたびあったが、それも兄弟ゲンカのようなところがあった。それまでは、まだまだ大陸諸国から学んでいた後進国だった。

  無敵のスペイン艦隊を撃退した頃から、大陸諸国とは一線を画し、独自の路線を歩みむようになった。また、海外に進出していった時代と言える。アメリカ、西インド諸島、アフリカ、インドに進出し、加えて産業革命が起こり、商業が発展し、貿易立国として名を成すようになった。大英帝国の時代の幕開けである。

 1690年から3次にわたって、英仏戦争がはじまる。フランスとスペイン対イギリス、オーストラリアの戦いになった。1707年になると、今までフランスと仲がよかったスコットランドがイングランドにつき、連合条約を結ぶことになった。そして、対仏戦争に勝利し大英帝国(グレートブリテン)の誕生となる。その後、また、アメリカやカナダの植民地でフランスとぶつかり、5次英仏戦争までつづくことになる。最後の戦争では、フランス皇帝ナポレオンとの戦いとなる。トラファルガー沖の戦い(1805)でフランス軍を打ち負かしたのが、有名なネルソン提督である。ヨーロッパ大陸内のワーテルローの戦いではウェリントン公爵の活躍があり、ナポレオンはエルバ島に追放された。この時代になり英・アイルランド同盟条約ができ、いままでフランスと強い絆で結ばれていたアイルランドを無理やり英国側に引き込んでしまった。スコットランド・アイルランド・イングランドの統一が行われ、国名が「United Kingdom(連合王国)」になった。 (アイルランドは1900年代に入り連合王国から分離独立した)

 

ビーフウェリントン

 「ビーフウェリントン」という料理がある。機内でも、ファーストクラスで提供していたことがある。この料理がウェリントン公爵の名前からきていることは、料理関係者の間では有名な話となっている。ローストビーフ用の肉塊の回りにペースト状のフォアグラを塗り、それをパイで包みローストする。焼き上がったものを切りわけてサービスする。これほど美味しい肉料理はないと思う。最高の料理であり、一流ホテルで注文しても簡単には提供してくれない。事前に予約注文しておかなくてはならない。一人前最低23万円はとられる料理だ。このビーフウェリントンが、フランスを打ち負かしたウェリントン公爵を讃えてつけられた名前なのである。イギリスの誇りを表している料理だ。

《名前の話し》

 統計資料によると、イギリスで新生児につける名前で一番多いのが、「ジェームズ(James) 」だそうだ。男児の赤ちゃんの14%に、「ジェームズ」の名前がつけられている。多い順に列挙すると、

      「ジェームズ (James)

     「ウィリアム (William)

     「アレクサンダー (Alexander)

     「エドワード(Edward)

     「トーマス(Thomas)

     「チャールズ(Charles)

     「ジョン(John)

      「ジョージ(George)

     「デイビッド (David)

      「エリザベス(Elizabeth)

     「シャロット (Charlotte)

     「アリス (Alice)

     「エミリー (Emily)

      「ビクトリア(Victoria)

     「エマ(Emma)

     「ソフィー(Sophie)

     「アレクザンドラ(Alexandra)

     「サラもしくはセーラ (Sarah)

     「ルーシ−Lucy」」 

 大石五雄氏によれば、アメリカでは、男児は「マイケル」「マシュー」「クリストファー」「ライアン」「ジェースン」「デイビッド」の順となっている。女児の場合は「サラ」「ジェニファー」「ジェシカ」「クリスティン」「アマンダ」「エリザベス」「キャサリン」の順に多い名前となっている。

 イギリスでは、男児の名前は、歴史に登場してきた国王に因んだものが多いのが分かる。カソリックの家族は、カソリックの国王から名前を、英国国教会やプロテスタントの家族では、プロテスタントを愛した国王の名前をつけているかもしれない。

 女児の場合でも、「エリザベス女王」や「ビクトリア女王」からきているようだ。「エリザベス」はエリザベス1世やジョージ6世の王妃エリザベス、そして現女王エリザベス2世である。それ以外では、有名な王妃の名前や童話集に出てくるような名前に人気があるようだ。「サラもしくはセーラ」は聖書の創世記に出てくるアブラハムの妻の名前であり聖書に因んだ名前もある。   

《世界制覇》

 同じイギリス人なのに、なぜ髪の色が違うのかという疑問から、イギリス人が歴史の中でどのように他民族と交わってきたかをみてきた。国内での戦いや外国との戦争に、宗教や領土が絡んでいたことも分かった。エリザベス1世が統治した1500年代後半は、イギリス人が自分達の国づくりに励んだ時代と言える。そして、1600年代は、議会と王様の宗教的対立から発したピューリタン革命、共和制政治、王政復古、政党政治の発展と国家の基礎固めをしていた時代だ。同時に、1600年代から1700年代にかけて、イギリスはスペイン、オランダから海上権を奪い海外に進出していった。1607年に最初の植民地をヴァージニアに建設した。1600年には、日本にも最初のイギリス人が来ている。日本史の教科書に出てくるウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)がその人だ。1700年代は産業革命の時代になる。最初に農業改革(囲い込み法)が起こり、生産が飛躍的に向上した。そして工業が発展した。1700年代後半には、水素の発見、水力紡績機の発明、酸素の発見、蒸気エンジンなどの発明が続いた。万年筆が発明されたのもこの頃(1780)だそうだ。新聞の「ザ・タイムズ」が創刊されたのが1785年であり、工業化の進展とともに商業も発展していった。

 英国という国は、しょっちゅうどこかの国と戦争をしているようなところがある。そして、負けるときもあったが、肝心なところで勝利してきた。だからこそ、大英帝国を築き上げることができた。現在の英国では、150ヶ国以上の言語が話されていると言われている。それだけ英国は、いろいろな国に進出し、またその国の人を受け入れてきた。植民地政策の結果、インド、エジプト、アフリカ諸国の一部、中国の一部、カリブ諸島、シンガポールや南太平洋の国々などを英連邦に組み込んできた。カナダや-ストラリアではつい最近までエリザベス女王の肖像画が飾っていた。

 英連邦の国々の人は、英国と自由に往来ができた。しかし第2次世界対戦後、これらの国が独立をしはじめた。1997年、香港の中国返還の時に見られたように、返還にあたり、英国政府は香港の人達に中国籍に戻るか、英国籍になるか、国籍の選択を認めた。当時、中国籍を取得するのを嫌がった人の大半は、親戚をたよってアメリカやカナダに渡った。英国籍になった人もかなりいたようだ。同じように過去にも、国が独立するにあたって英国に流入してきたアフリカ人、エジプト人、カリブ人、シンガポール人等がイギリス人の一部を構成するようになった。

  イギリスにはいろいろな色の髪や目の人がいる。髪の色や目の色が違っても、白い肌は共通していた。ところが、現在では、イギリス人は白人である、と言えない時代になっている。アフリカ系黒人もいれば、黄色人種のシンガポール人や中国人もいる。中近東系の人もいる。それだけでなく、海外に進出していったイギリス人が、現地の人と結婚し本国に連れもどしてくることも多かった。クラスのマリー・マーも父親がイギリス人であるが、母親はシンガポール人なので、アジア系の顔立ちだった。したがって、LON基地のスチュワーデスだからといって、すべての人が金髪系の白人ではないのだ。ロンドンのソーホー地区では、中国レストランが軒を揃えている。ヒースロー空港の近くにインド人が多数住んでいる街もある。ハイドパーク公園近くのランカスターゲート地区は、中近東の人達の街と言えるくらいアラブ系の人が多い。 
 
 
 
 
 
 

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